グレイプバインのベスト盤が発売されてもう1ヶ月が経つが、買っていない。ベスト盤というものに意義を感じなかったからというのがおもな理由だ。でも、盟友の魚さん(ブログ:世界は何も告げないhttp://d.hatena.ne.jp/chrysalisys/)が「裏ベスト」を選曲している(http://d.hatena.ne.jp/chrysalisys/20120922)のを見て、ぼくもやりたくなった。
そもそもがカセットテープからMDに到るダビング・セルフコンパイル習慣の中で育った自分としては、ベスト盤が嫌いだなんつっても、自分でコンパイルMDを作っていたのだから、裏ベストを選曲するというのは少年期から培われた半ばスタンダードな行為でもあるわけで、懐かしさ(とはいえMDをせっせとこしらえていたのは「Here」までで、それ以降はほぼアルバム単位で聴いていた)とともにネットならではの顕示欲が相まって、久しぶりにやってみたいな。とずっと思っていたのだ。
でもこういうのって考え出すとキリが無いし、だいいちそうやって考えて出したリストにも、さして意味があるわけじゃないじゃん今日日? 誰もが頭ン中で自分なりのリストを空想しているわけだし、毎朝毎晩肌身離さず携えられるipodiPhoneには実際にそれを現実化したものが入っているんだから、ンなもんブログに晒すだけ野暮だし、だいいちめんどくさい。という思いとともに、別にやってもいいじゃん。これが最終回答なワケでもないんだし、だいいち更新できるし削除だって出来るんだから。という(難しく考えるのをドッチラケで放棄した)思いもあった。
なので試みに紙に書き出してみると、案外さほどめんどくさいこともなく、すんなりと「裏ベスト」に入れたい曲は出てきた。とはいえいくらすんなり出てきたと言っても40曲も50曲もではそれこそキリがない上にダラダラと締まりが無いだけの、少し熱を帯びたままの憂鬱な一夜になってしまう(それは実に悪くないけど)ので、魚さんのルール(20曲)に従って22曲に絞り込んだ。これは裏ベストを<確定>組(12曲)と<控え>組(10曲)に分け、控え組の中からシチュエーションに応じてフレキシブルに残り8曲の出し入れを可能にし、都合20曲。という考えで選んだものだ(だから実質は22曲です)。
というわけで、選ばれた中から曲順を考えてリストを組み立てようと思ったのだけど、ぼくの選んだ曲のバリエーションが乏しいのか、1曲目の「いけすかない」を決めてから後がどうもうまく続かない(やろうと思えばいきなり2曲目に「そら」を持ってくるとかできるけど)。なので単純に、発表順で並べることにした。

  • 手のひらの上<確>
  • そら<確>
  • いけすかない<控>
  • 望みの彼方<控>
  • リトル・ガール・トリートメント<確>
  • 羽根<控>
  • JIVE<控>
  • Our Song<控>
  • ナツノヒカリ<控>
  • それでも<控>
  • ふたり<確>
  • スイマー<確>
  • Good bye my world<確>
  • 放浪フリーク<控>
  • GRAVEYARD<確>
  • インダストリアル<控>
  • 棘に毒<確>
  • Afterwards<確>
  • 小宇宙<確>
  • Dry November<控>

 
いかがでしょう。わりオーソドックスにまとまったリストになったんじゃないでしょうか。正規(も何も無いけど)ベスト盤とは8曲、魚さんとは6曲かぶっている(もっとかぶってると思ったけどその程度か?)。
以下、魚さんに倣って発売順に所感を。

覚醒

覚醒

デビュー前のミニ・アルバムから2曲目「手のひらの上」<確>。これは外せない。演奏自体はまだ大人しいけど、デビュー前にしてすでにグレイプバインというバンドは完成の域に達していたんだな、というのがありありとわかる。今聴き返しても全く違和感が無いことに驚く。

…とこの調子で書き連ねていっても、ダラダラと長い上につまらないのでやめました。
ただひとつ重要な点をあげるとしたら、「another sky」以降(とぼくは捉える)のグレイプバインは、「過ぎ去ったもの」「永遠に失われてしまったもの」について一貫して歌っている。ということだ。上の20曲に挙げた中で、「ジュブナイル」は言うまでもなく(これがシングルで発売された当時は、なぜこの曲が?と思わざるを得ない地味な曲だと思ったが、聴き続けるたびに込められた痛烈な感情は日々胸を穿っている)、「小宇宙」(「旅立ちの日/君の睫毛は/時計の針に勝てる気がしたのに」)「ふたり」(この曲は村上春樹国境の南、太陽の西」のエンディングを想起させる)「Afterwards」(日比谷公会堂のライブにはアルバムを買わずに行ったのでどんな曲をやるのか知らなかったが、この曲が流れ出したときぼくは泣いた笑)。「Dry November」そして「エレウテリア」もそうだ。
そのことは何を意味するのだろう。芸術とただの感傷のボーダーラインを形成するものは何か? 過ぎ去ったもの・失われてしまったもの。それらに、ぼくたちは目を離せない。その事実に向き合うこと。たとえば、ポップソングのひとつの大きな意味は、そこにある。自分の負った(あるいは自分でつけた)甘い傷を反芻せざるを得ない、という事実。グレイプバンは、つねに「想うということ」の痛みと甘さに直面させ、それをときにソリッドなギターで、ときにポップなメロディで、ときに痛烈な皮肉で、昇華させる。こんな言い方は、結局ぼくが「感傷」に浸っていることの良い証だ。でもグレイプバインは違う。彼らは、生きるということは、過去に目を向けざるを得ないという私たち自身の生を歌っている。それを認めつつ、つねに今を生きるということを聴く者の目の前に提示する。
過ぎ去ったものや、永遠に失われてしまったものは、きっと美しいまま、少しずつ乾いてゆくことになる。それを、「いつまでもこうして眺めていたい」のが人なのだ。こうしてぼくのただの「感傷」は少しずつ乾きながら(本当はもう殆ど乾ききっているが)、それを眺める「いまの自分」を逆照射している。そのためにこそ過去はあるのだろうから。
 
かつてコンパイルしていたセルフMDの記憶から、1曲目を「いけすかない」に、そしてラストは「ふたり」あるいは「スイマー」あたりで締めたい。
こうして、裏ベストを決めるのだ!というありきたりな愉悦は、肌寒くむなしい一夜のいくばくかの慰みとなるのだった。寒い。最近喉が鍛えられたのか、「棘に毒」のサビの「今でも君のことを歌うリフレインはずっと」の「君」の「き」が裏返らずに出るようになって、嬉しい。