Everything You've Ever Dreamed

 
エヴァ劇場版でシンジがアスカの首を絞める(「Komm, susser Tod(甘き死よ、来れ)」が流れる)シーンは、もともと「Everything You've Ever Dreamed」という曲が使われる予定だった。ということを、つい先日はじめて知った。歳をとるとはひとつこういうことなのだなあ、と思う。この間、ずっと観ないままにしていたヱヴァ「破」をDVDで観てまたエヴァに対する思いが俄かに高まっていたところだったので、この事実を知り、もう最近は一日中この曲が頭の中でリピートし、エヴァのことしか考えられないような状況になっている。
どうしても考えてしまうのは、「甘き死よ、来れ」のかわりに「Everything〜」だったら、どうだったのだろう。ということだ。どちらの曲も、相手を傷つけてしまったことで自分をも傷つけ、死すら願うというタナトスに彩られた曲で、それどころか対をなしている曲だ(「ハリネズミのジレンマ」にも通ずる、自分の相手に対するぬくもりを伝えようとしても互いを傷つけあってしまう。ということ。互いが互いに相手を傷つけ、それによって自分を傷つける。ふたつの曲の主人公は互いに同じ行動を取ることで、逆説的に補完しあっている)が、両曲の交代は(有名な話だけど)アスカの最後の台詞が「あんたなんかに殺されるのはまっぴらよ」から「気持ち悪い」に変更になったことと連動して起こっている。このことは、エヴァという作品自体にとって非常に重要なことだ。
最後の「気持ち悪い」という一言は、文字通りパズルの最後のピースを埋める言葉で、これはエヴァという物語が自我や自意識の円環から解き放たれ、他者性への開かれ(への可能性・希望)のトリガーになっているとぼくは解釈している。他者へと開かれるとき、また他者の存在を望むとき、自閉した物語は終局を迎えなければならない。自分自身の中であれこれと葛藤し、自意識の病みがもたらす死すら願い、それでも他者の存在を望み、生きつづけることを自ら選び取って現実へ戻ってきても、何ひとつ解決していない。すべてが振り出しに戻ってしまう。という(他者との交感の絶望の側を描いた)エヴァの物語(の終り)がぼくはとても好きだ。たった二人で世界に取り残され、アスカに「気持ち悪い」と言い放たれても(なぜアスカが「気持ち悪い」と言ったのか、はポイントだ)、それでも生きていくこと。終局は絶望的だが、ここには生きることそのものの全面的な肯定、希望が描かれているとぼくは思うのだ。
 
それにしても「Everything〜」である。「Air/まごころを、君に」のときぼくは15歳くらいだったと思うが、この曲を聴いていたらどう感じただろうか。詮無いことだけど考えてしまう。サビの「You can sail the seven seas」だけで圧倒的な多幸感とせつなさに包まれて胸が詰まってしまうけれど、当時でももしかしたら純粋に希望の歌となってあるいは心の支えとなったのかもしれない。「甘き死」と同じく庵野氏の原詞を訳した歌詞も美しい。美しいというか、ぼくには(30となった今でさえ)世界のすべてがここに描かれている、と思ってしまう。でも「甘き死よ、来れ」が描き出したおそろしく静寂な世界観も得がたいものだ。そう考えると、私たちは「甘き死よ、来れ」が流れた現実を生きているのである。生きるということはとても奇妙だと思う。
しかし、いまだにエヴァを引き摺っているとは、というか、時を経て再燃し出したので、自意識の問題はぼくの中で何ひとつ解決されないまま、むしろ大切に温存されたまま、いまこうしてふたたび前面化しつつある。何をトチ狂ったか、「破」を観たあとぼくはすっかり興奮してしまって、すぐさま「Q」の初日のチケットを取ってしまった。