読書の意義とは、知識を吸収できるところにあるのではなく、「今まで知らなかったことを、いろんな何やかやを経て、それらがある日突然つながって靄が晴れたかのようにすべてがわかる」という経験、つまり人生そのものを疑似体験できるところにある。そして人生は事後的にしかその意義を知ることができないが(ゆえに人生には何らかの価値がある/無い)、読書は人生というもの、人生というものの推移のおぼろげな輪郭を私たちに垣間見せてくれる。それはたんなる予兆に過ぎないのだが、その予兆こそがたえず私たちを動かし、予感させ、つねに現実という絶望からずらし続けるのだろう。そんなことを、石のように固まった足で、動かぬ大地で、ふと振り返って、思うのである。ぼくの見知らぬ誰かが、愚かな言葉なしで、風の中に見出していたであろうこれらのことどもを。言葉とは権威である。ぼくは権威の犬である。際限なく。
そしてさらに思う。神奈川県ってのはどうしようもないクズだな、と。全面禁煙なんてまともな文明人ならやるはずが無いのだ。こういうのも権威を笠に着てると思う。そしてもしツイッターをはじめたとしたら、こういうことを発していきたいなと、切に思うのである。テレビを見てるときの口癖は、「うぜええええ(そして「死ねよ」と続く場合もある)」であることを、ツイッターを通して発信していきたい。そう、港に船は戻らない、と君が言うのなら、ぼくこそが港である。船の戻らない港に、価値など無い。ただそれだけだ。稚拙な比喩をいま一度上塗りさせていただくなら、星々散らばる広大な宇宙の、辺境の小さな星になりたいのだ。誰も立ち入らないような、誰も立ち入ることに価値を見出さないような。だが幸か不幸か、立ち入る者はいるのである。なぜならその星は宇宙の中にあるから。そして港が海と陸との境に位置する以上、港は港なのである。船が戻るか戻らないかなんてことは関係ない、港で無いはずが無いのだ。そして港である以上、いつか船は戻るだろう。そういうことだ(はっきり言って、自分で言ってることがわけわかりませんが)。
ぼくはまだツイッターなんてやらないよ!だって人より3年か5年は遅れてるんだから。みんなが飽きはじめた頃、やろうかなーなんて言い出すのだ。しかし、インターネットにおいてはそのタイムラグが急激に縮まっていることは確かのようだ。つまり誰もが即参加して即時に順応する、あの感じだ。ぼくはそれが苦手なのかなあ。いやおれはエゴが強すぎるだけなのだ。文字には属性を与えられる余地がかなりあるが、逆に属性が失われ(別の属性を上塗りされ)る作用も強い。中心に身を置くことの快感や官能よりも、辺境の安心感、解放感をぼくは選ぶのかもしれない。だから、ツイッターにおける辺境性を見出したならぼくはそこへ行くかもしれないなあ。わかんない。つまりこのぼく自身が辺境にあるのか。いやそれは自分にとってはとてもじゃないが抽象的にはきこえない。