フェリーニ「道」を観た

 
フェリーニの「道」は、今日ではもはやわかりやすいほど図式的な「男-女」「夫-妻」の関係性を物語っているが、横暴な夫ザンパノの妻ジェルソミーナが「白痴」であることが重要なのだ。ザンパノから見て白痴、周囲の人から見て白痴。であることがこの物語のひとつのキモである。もちろんそれは実際に白痴である(淀川さんはジェルソミーナをして「この女の子はちょっと頭いかれてるんですね」と評したが)ということよりも、周りの人からは白痴「に見える」、ということが重要だ、ということ。
ここに女性性の秘密が隠されていると思う。卑俗にまみれながら神聖、ビッチでありながら聖女。なんてなのはそれこそ卑俗な物言いだけど、相反するふたつの属性を内包する、そしてその女性のさますら、あふれ出る聖性を畏れ敬い愛し同時に虚無な卑しさを嫌悪し呪い怖れるという、相反するふたつの感情を対面するこちらに抱かせる。
フェリーニは妻ジュエリッタ・マシーナ(ジェルソミーナ役)との生活の中からこの「道」を描き出したという。つまりこの映画では、男性にとっての女性の本質が描かれ、それを目の当たりにする男性の本質(無力性)が描かれているのだ。
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もうひとつ、この物語ではテーマ曲(物語の伏線になっている)を弾くバイオリン弾きが登場するが、彼とジェルソミーナの対話がまた泣かせる。物語が悲しみの極致で終幕するために、中盤で展開される二人の会話はいっそう感動的だ。結局この男はザンパノと折り合いが合わず最後は(アクシデントとはいえ)殴り殺されてしまうのだけど、彼の優男ぶりがまた良いし、飄々としていながらもジェルソミーナの本質をおぼろげながらも掴み、ジェルソミーナに道を示す、そのあいまいなままの悟性に、フェリーニは男性にとってのひとつの可能性、道。を込めたのかもしれない(とはいえ、道を示すことによって結果的には彼女を死に追いやることになるのだが、おそらくそれは本質的な問題ではない)。「俺は、使えない女は連れて行かないんだ」とジェルソミーナに言う、その言葉とは裏腹の優しさが伝わってきて本当に素敵だ。死の直前、殴られて後頭部をぶつけた後に、「時計が壊れちまったじゃないか」とうつろにつぶやくのがまた素晴らしい。
横暴で他人を省みず、ジェルソミーナと対話することを拒んだザンパノと、優男で飄々としているがジェルソミーナとの対話の中からことの本質を提示するバイオリン弾き、対照的な男性の描かれ方が面白い。ジェルソミーナを導いたこの優男、この種の男は腕っぷしが強くて優男の胡散臭さを嫌うザンパノのような男に結局は殴り殺されるんだ、という男性同士の構図が読み取れるようで、非常に示唆に富んでいる。

ぼくはジェルソミーナにすっかりやられてしまい、早速その日の夜には(自意識のなせるウザさ、と捉えてもらって構わないが)ジェルソミーナとザンパノのような物語が夢に現れて、いや泣けた泣けた。ジェルソミーナ演じるジュリエッタ・マシーナは、いわゆる美人女優ではないが、役にすっかり入り込み、微笑みや悲しみなどの表情のみならず全身で感情を表現する。素晴らしい女優だと思う。
続くフェリーニの「崖」にも出演、「カビリアの夜」では主演もつとめているとのことなので、是非観てみたいと思っている。