嫌煙(?だか何だか知らないが)というスタイルは、ある種の要素と非常に親和的に結び付く性質を帯びていると思う。ある種の要素とは何かを文章で説明できないのが無力だが、ぼくはそれに対してもの凄い違和(それは逆に言えば簡単に取り込まれ得るものでもあるのだ)を感じ、激しい憤りを感じてもいる。だがそれこそが現在の人類を前進させているものなのだ(見せ掛けに過ぎないのかもしれないが)。それはつまり(「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことだけが野蛮なのか」から外形的にのみ言葉を借りるとして)「文明」と「野蛮」という区別のしかただと思う。看護婦を看護師と呼んだり、過剰で不要なサービスを消費者本位のサービスと置き換えたり、諸々そんな糞みたいなことが文明の成熟だというのなら、確かにぼくは野蛮で構わないと思う。その陳腐な意識の高まりがお前らみたいなのっぺらぼうを量産しているのかと思うと、腹の底が沸々と煮えたぎる。