自然、死神。
だがそれは神ではない。総体としての死。
人間など、いま部屋の中をあてなく漂っている塵と同じようなものだ。
ねえ、誰が、何を言おうと、幾つもの涙を流そうと、似通った言葉を吐き散らそうと、
自然はぼくらの心の奥底を掬い取って、放り投げてしまう。
ぼくらは監視されてる。耳を澄ましてみよ。カサコソカサコソ、何と気味の悪い音たちがぼくらを囲い込んでいることか。無垢なる自然は、かなり残酷で、大いなる穏やかさだ。
穏やかだからこそ、ぼくの喪失はふくらむ。去来するこの感覚は何なのだ。この恐怖、この静けさ。世界の終りとは何なのか。世界の終りはビルの群れだ。ぼくにとってのイメージだ。人々の心の闇。暗がり。それが恐ろしい。それをのぞくことは出来ない。それは地震につながっていて、地震が起こってそしてそれはつかの間支配するだろう。
言葉が継げない。ぼくはとにかくそれが恐ろしい。ぼくは恐ろしい。恐ろしいという感覚が、地震につながっている。さまざまなものの音の無い死。ぼくが死ぬということにたいして意味は無いだろう。問題なのは、認識?人々の闇が顕在化することが?顕在化などするもんか。その気になれば彼等は我々を一瞬のうちにひねりつぶしてしまうだろう。やろうと思えばいつだって。ぼくがぼくであることなんて、糞だ。その感覚が疎ましい。やぼったい。飛び越えたいものだ。惑星を手のひらに乗せた。あるいは目の中に入れた。その細胞的な矮小さ。それはブラックホールだ。その何という大きさ。「存在」というものの罪。定義することの安寧。それを振り切って存在する。認識は糞だ。彼等は我々を無という静寂に吸い込み、その総体としての穏やかさが、ぼくを震わせている。恐ろしい。恐ろしさだけが唯一の実感だと思う。