オリンピックはあっけなく終ってしまった。各選手の裏話の後でのメダル獲得やカーリング女子は小野寺・林両選手の涙を交えての談話など、壮大なるオリンピックテーマソングとやらをバックに観ていると、不覚にも目頭が熱くなってしまうものである。でもそんな簡単に感動したり泣いちゃったりして良いものか?もっと個人的なものなのではないだろうか?テレビに大写しになっているのを見てあっさり感動しちゃうというのは些か調子が良すぎるのではないか…
感動、生きる意味、努力と成果…が要領よく見栄え良くパッケージングされたオリンピック。今さらながら、オリンピックという存在、そこに横たわる資本主義的でショービズ的な世界観のあり方に疑念を抱いた。うまく言えないけれど、この変な疲労感は何なのだろう。豪華な開会式も建物も、終ってみれば作用の消えたカオス。よくわからない。たぶん、世界がひとつになっていくのが怖いのかもしれない。いや、だからといって石油工場を爆破するのが良いなんてこれっぽっちも思わないけど。でもあそこで勤務している人達はオリンピックなんか観ないんだろうなあ、と思うと否が応にも自己分裂的な感覚は強まる。

子供のころ、オリンピックといえば新聞を広げて、各競技でメダルを取った人の名前や国名をじっと見つめて、ベラルーシだとかイランだとかエクアドルとかいった国があることを知った。淡々と繰り返し競技は行われ、ぼくは飽きもせず眺めていた。観ているぼくからすれば、その退屈なルーチンを一丸となって「淡々と」こなしていく姿が、えらく魅力的だった。その大いなる浪費、それこそがぼくがオリンピックに感じる最大のリアリティだ。勿論、興奮や感動もあり、なんだけれど、大いなる退屈にすっぽりと包まれるのが大前提なんだ。その一見非日常で実は綿密に日常性と繋がっているところが好きなんだ、オリンピックは。なんかよくわからんけど。