一人ひとりのちょっとしたムダが重なり集まって、ニュースになるようなひとつの大きなムダを生むのだ。「どういうふうに責任をきちっと出すのか」なんて問題じゃないだろ。どうしてそういうことが起こったのか原因を突き止めなくてはいけないわけで、責任なんか二の次だろう。コメンテーターは馬鹿なんだからコメントを控えろよ。
みんな、わかってるのだ。日本中いたるところでムダやズルが行われているわけだから、日本中のみんながそういうことがあるなんてとっくに承知してることなのだ。そこで必要なのは、「責任」を取って腹を切るべき人間なのだ。そいつが、あるいは「自分の身代わり」となって腹を切ることで、ある種の解放が生まれることとなる。歴史の教科書にはそうして無念に散った者の名前がこれ見よがしに掲載される。歴史は繰返されるのだよ。その瞬間を見逃すな。その瞬間の、国民の陶酔しきった顔を。
  
何か事が起こったときに、「誰がやったの誰が?」と真っ先に口に出す人をぼくは軽蔑すると言っているのです。それよりも責任の所在は二の次においといて、とりあえず処理を優先して行う人(これがすなわち「責任を引き受ける」ということになるのでしょうな)が必要なのだ、と思うのです。勿論どのような組織にもその両方の種類の人がいるのでしょうが、どうも「誰がやったんだ誰がやったんだ」と口にする人ほど尊大な態度を取り、あたかも「俺はやってない関与してないんだぞ」ってのを言いたがってるように見えます。
いま日本ではいじめや自殺、殺人、そして社保庁年金問題など、さまざまな問題がテレビニュースを賑わせていますが、「どうしてそんなことが起こったのか」という議論が十分になされないまま、責任の追及に走ったり、あるいは少年法改正に見られるように単なる厳罰の強化を行ったりと、いささか短絡的な傾向があると思います。根底にある複雑な原因の絡み合い、それを丁寧にほぐし尽くし、それでもまた別の捩れよじれが生まれ…際限なく続いていくのでしょうが、別の誰かに押しつけて、道の上のゴミを田んぼに全部押しのけて綺麗にしたつもりでも、そうはいかないんですよ。