宗教は性差別を解消するようなものではない。むしろ性と性とのあいだに横たわる「差異」を認識し理解するためのものであろう。宗教と性差別を一緒くたにして論じることは、その双方に対して基本的な理解が出来てないように思うのだ(うおお、理解できてない自分が言ってしまうというこの恐ろしさ)。
宗教は人が連綿と時代に刻み付けてきたもので、その理念・建造物には人びとの思想が込められている。そういうものが伝統だと思っている。はじめに伝統ありき、ではなく人びとの素朴で一途な思いが込められているからこそ尊いのではないだろうか
(ちなみに伝統と一口に言ってもそこには愛憎入り混じった感情が込められているのではないだろうか。いろんなブログなどで仰る方がおられるように、それは当事者の複雑な思いを無視しては語れない。伝統とはそういう「人の心」をさまざまに織り込んだものだ、ということを改めて認識しなければならないだろう。だが今回山に押し入った人間はそこのところをはっきり無視している、認識すらしていないようだ。それは彼等が都会人だからか?それはあまりに短絡的だろうか。彼等が都会人で、ぼくが田舎の人間だということは、この問題を考える上でかなり違いがあるように思う。何も都会はダメで田舎が素晴らしいとは思わない。しかし、伝統だとか風習だとかそういうものを考えるとき、それは複雑な感情を孕んでいる。それは微妙な心の問題、心の機微なのだ。そういう人びとの心を反映したものが伝統、日本の風土だということを、都市に生きる人は考えて欲しい)。
しかし何故「差異」を解消しようとするのだろうか。ぼくにはどうも社会のシステムに乗っかって駄々をこねている子供に見えてしまうのだ。彼等が主張している「男女平等・機会均等」は一見「正しいこと」のように思えるのだけど、結局は「自分の好きにやりたい」というのを「押し通そうとしている」「子供の論理」なのではないか。
 
 
ちなみに先の件で言えば、ちゃんと定められた作法(明文化されているのかどうか知らないけど、1300年続いているわけですから、文明社会に生きる我々にとって察することは容易ですね)にしたがって運営されてきた領域を、自分の主張をひとつ押し通すために無理やり侵したという時点で既に社会的なルールを侵していると思う。
それだけではなく、ここでもっともぼくが許しがたいのは、『彼等』がえせフェミニストであるということよりも、「大峰山」の性格が殆ど「女人禁制」に限定され、それを解消するただそれだけのために山に入った、というその蛮行そのものである。
山中に入って厳格な修行を行いたい、という気持ちならいざ知らず、あろうことか大峰山に対しては「片手間」の気持ちである。1300年という『伝統』。1300年という土地と人びとの歴史でもある。それが『彼等』のちっぽけな思想によってまるで嘲笑うかのように踏みにじられてしまったのだ。
『彼等』は自らが社会に不当に扱われることに反抗し、批判するのに、実際に行ったことは不当な侵犯だ。言うならこちらのほうが「自家撞着」ではないか。「自己満足」ではないか。『彼等』のその「すり替え」、身勝手さに憤りを感じたとしてそれは不当な感情なのか?汚い言葉で罵るのが非難されるのは当然としても、自家撞着と言い捨てられる覚えはない。ま、自己満足ではあるのだけど。