Perfumeについて適当に、しかし心はぐっときて

ぼくは「ポリリズム」を偶然Youtubeで観てそこから遡るようにして初期の音源に惹かれていったのだが、なぜPerfumeに惹かれたのかというと、彼女たちはその半身をフェミニズムに浸し、「闘って」いたからだと思う(自分のフェミニズムに対する理解が十全ではないため、この見立ては間違っているかもしれないが)。彼女らは、この国におけるアジャスト/アゲインストという問題に真っ向から立ち向かい、光を当て、道を差し示した。アジャストするかアゲインストするかでしか存在できない(無きものとして扱われる)この国でPerfumeが提示したのは、私たち一人一人の中にこそ立ち向かうべき、乗り越えるべき固有の問題があり[訂正:私たち一人一人の中にこそ立ち向かうべき、乗り越えるべき固有の問題を見出すべきであり]、それを通して私たちは共闘しているのだ。という意識だと思う。だからこそあれだけ幅広い層からの支持があったのではないか(まるで朽ち果てた砦のてっぺんから顔を出して、「こっちにもいるぞ!」と叫んでいるみたいに)。Perfumeが好きである。と社会に表明することが、何らかの代理表明になったという時期があったように思う。ただ、社会はフェミニズムを(むしろ理解や好意によって)無化しようとする働きがあるのか?、今や時代のスター、まさにアイドルとしてPerfumeオリコンの1位に持ち上げる人たちの中に、どれだけ「闘いなんだ」という思いを持っている人がいるのだろうか(別に持っていようがいまいが構わないんだけど。良けりゃ聴くで全然いいんだから)、そして果たして自分は共闘する側の人間なのであろうか。ということが懸念されるのだった。
(あるいは、彼女らがそのキャリアを地方都市でスタートさせ、地道に広げていったという点も大きいのではないか。都市(=東京)/地方という狭間で、夢への憧れ、夢を追うことの重要性、夢に呑まれることへの危機感、といったものを慎重に積み上げて着実に成長していったPerfumeが、「ポリリズム」で垢抜け、1stアルバムで安定と戦略的な「媚び」を見せ、「love the world」ではそれを顕在化させ、といった具合にだんだん都市へのアジャストを見せるようになるに連れ、アップデートなPerfumeへの興味は薄らいでいった。新天地での生活をスタートさせる、といった内容を持つ「ワンルーム・ディスコ」は封を切ってすらいない。これをPerfumeが「アジャストした」と言ってしまっていいのか、チャート的にも完全な定着期を迎え、それでも闘うものがまだあるのか。といったようなことは、彼女たちの身体性がゆくゆくは物語ってくるだろう、とても味わい深いと思う。だから、というか何と言うか、「顔がかわいくない」とか「そもそもこの3人である必要があるのか」とか、そんなんホントにどうでもいいことなのだ)
 
初期の曲を聴くと、ああ闘ってるんだな。と思ってぐっと来てしまう。

 

なんでこうも懐かしく切ないのでしょう。