自己主張・自己の「客観的評価」は呪いである

村上春樹のインタビュー集が出たというので買った。
夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです
夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです
  
はじめて村上春樹の刊行物をリアルタイムで買い、読んだかもしれない。「1Q84」は初版で買ったけどまだ読んでいない。
一気呵成に読んだ(1Q84アフターダークの箇所は、まだ読んでない(どっちも持ってるのに)ので飛ばした)。いやあ、やっぱり村上春樹は好きだな。村上春樹を通して、ぼくは世界をじっくり眺めることができるように感じる。良くも悪くも、ぼくは村上春樹の世界観にとらわれている。
 
文中の「今、世界の人がどうしてこんなに苦しむかというと、自己表現をしなくてはいけないという強迫観念があるからですよ。(中略)これは本当に呪いだと思う」という箇所は、今の自分には心理的に非常な助けとなった。こわばって凝り固まってじゅくじゅくしていた部分にさあっと爽やかな風を通したような、ぱっと目の前がひらけるような手応えを感じた。そういうのって、ぼくは村上春樹の文章からしか殆ど感じない。だから何だと言われるとつらいけれど。つうか今デジャヴきた。
 
1995年のエヴァンゲリオンから村上春樹を経て、2005年の菊地成孔、そのようにぼくは「失われた10年間」を過ごした。
 
なぜ今のこのタイミングでインタビュー集を出したのだろう。おそらく、「1Q84」のいささか熱狂的すぎる「成功」が少なからず影響していると思う。
村上春樹は今もっとも国内外で評価されている作家の一人だろう。そして、過大評価され同時に過小評価されていると思う。ぼくは村上春樹の作品が真に理解されるには、少なくとも20年はかかるんじゃないかと思っていたけど(と偉そうに言うけど)、本人もやっぱり同じようなことを考えているのではないだろうか。過大評価されるにも過小評価されるにもどちらも誤解が入り混じっている。ブームを作り出し、そしてそのブームを貶める。どちらも同じ担い手だ。
その中で「村上春樹」というイメージが生み出され、正しい正しくないにかかわらず、それは一人歩きしてしまう。「ノルウェイの森」のときもそうだったし、今回の「1Q84」しかり。だから、彼自身が何を思い、考えているのかを表明しておきたかったのだと思う。
もっと静かに、淡々と、物語を読み、その物語の中に入り込み、物語を経験していく。そういう「読書的な」プロセスを経てこそ、村上春樹の小説は真に評価・理解されうると思う。そして、現にそうしている人がおそらく日本中にたくさんいる。ぼくは、そういう人たちとどういう形でかはわからないが、何となく共感しあい、あわよくば高め合っていけたらいいと思う。そんな物言いは、ぼくには似つかわしくないのだが、最近はそんな物言いで自分自身のことを考えている。
 
しかしこれでは寸感にすらならんな…。