自分の中でこうするべきだ、とかこうしたい、と思っていることをやったり、表現したりしてる人を実際に見たりすると、それは違うそれは間違っている、そんなのは馬鹿げたことだ。などと思うときがある。
それは先に言われ表現されたことへの嫉妬なのかと思いきや、嫌悪なのである。かたや、良いなあ素晴らしいなあ、自分も真似したいなあ。という存在もある。そこには嫉妬が含まれている。しかし嫌悪はない。ゼロである。そこには(一方的だなんて関係ない)愛があり、リスペクトがある。彼らから何かを学びたい、何かを得たい。といういわば前向きな気持ち(嫉妬というようなねちっこい感情も含まれている。しかしそれこそ生への執着である)が不可避的に生まれてしまうものだ。嫌悪があるとき、それにアゲインストする際に生まれるベクトルの力は別にせよ、それは己にとって忌むべき存在なのだ。それは全身全霊をもって避けなければならない。しかし自分が本当は何を嫌悪しているのか、に対する自覚もまた必要とされる。だが愛やリスペクトは、たとえそれが見当違いであれ誤った結果をもたらすにすれ、そのベクトル自体が善でありすなわち生命へとつながっており、それ自体が祝福し祝福されるものなのだ、と思う。
われわれはそういうものを自分の中にストックしていくべきだし、また当然そうしているのだ。この当たり前の迂回はしかし、エロスとタナトス、そしてそれらがしばしばねじれて顕在化することをぼくに想起させる。たとえば深い哀しみや絶望の中にこそ希望があり、ピュアに清められた世界こそ死の表徴だというようなありきたりのことだ。しかしふたたびしばしば、ぼくらはそれに惑わされる。ぼくらがぼくらであること、ぼくらがぼくらであったし、今後もあり続けるというかけがえのない連続性だ。ぼくは彼らから何を学んだのか?いや学んだのではなく、たんに感じただけだ。何かを。まるで閃光のように。それは瞬間の光だ。大根を真っ二つにしても、斬り裂いた繊維の断面がまた元通りにくっつくくほど鋭い包丁と同じく、連続性を斬り裂く閃光だ。かけがえのなく、弛緩した、死と寝るような連続性を、絶え間なく斬り刻んでいこう。全体としては連続性を祝福しつつ。